反省

「努力は裏切らない」という言葉がある。果たしてこの言葉は真なのだろうか?

 

それが真か否かは分からないが、怠惰は「微笑まない」。僕が問われたならこう答える。上手くいかない事柄は、満足できない現実は、過去の自分が努力を怠った当然の帰結だ。学業成績が振るわないとか、仕事が上手くいかないとか、スポーツができないとか、人間関係が不得意とか、会話が下手だとか、モテないとか、上手くいかない事柄は一般にいっぱいあるだろうが、結局その原因は過去の自分が怠惰だったからだ。現在の人物やその環境っていうのは、良くも悪くも過去に自分がやってきたことの積み重ねでできているのだ。

もちろん生まれ持った才能がそれらに強く影響することは間違いないだろう。少しの学習時間で優秀な成績を収める人はいるし、少しの練習時間でスポーツでで高い順位を取れる人はいる。それはどの分野でも同じだ。でも、センスの無さを恨んでも仕方がない。結局、周囲が注目するのは結果なのだから。

 

人は不満な現実を嘆き、一方で理想を語る。しかし理想というのは実力を伴う者のみが口にできる現実だ。実力のない者が現実を嘆いても、負け犬の遠吠えでしかない。

不満な現状を変えたければ、自ら行動しなければならない。不満な現状が変わるまで行動を起こす気がないなら、不満な現状に妥協するしかない。そして現在の環境が劣悪なら、自らの手で、あるいは誰かの手を借りて、変えるか逃げるかしなければ、現状維持のままだ。

 

僕はこの当たり前の事実に気付くのが遅かった。

僕は今まで自分は嫌な経験をたくさんしてきたと思っている。そして不満な現状を生まれ持った低い才能や与えられた環境のせいにして、自ら現状を変えることを怠っていた。自分や環境が変わることを、自分が傷つくことを恐れていた。

でも、それは間違っていた。責任転嫁だった。過去に嫌な経験をたくさんしたからと言って、後ろを向きながら歩んでいくことが必要になるわけではない。他人と比較して劣っているからと言って、歩みを止めることを許容されるわけでもない。

確かにセンスの有無に個人差があることは事実だろう。でも、自分にはできないことをセンスの無さに押し付けることは怠慢だった。責任転嫁して、労力をかけずじまいでは、現状は何も変わらなかった。過去の怠慢が現在の自分の姿かたちを作っているのだ。

 

そもそも、自分が他人より劣っていると決めつけていたことさえも間違いだったのかも知れない。他の人にはできていないけれども僕にはできるという事柄もある。客観的に賞賛されることだってあった。逆にそれを羨ましがられるということもなかったわけではない。僕にとってその最たる例は学問だ。

 

ないものねだりだった。僕に隣の芝生が青く見えたように、逆に隣人にとっても僕の芝生が青く見えていた。

僕の青い芝生は、それ相応に手入れをしてきたから青く見えるのだと思う。周りより時間や労力をかけてきた(と自負している)からこそ、今こうして恥ずかしくない程度には学業成績を修めることができているのだろう。他の部分についても、手入れの度合いに応じて青さも異なっているし、手入れをしてこなかった部分は、ものの見事に黄色くなっている。

 

 僕には残念ながら努力は必ずや報われると決め打ちできるほどの成功体験がない。しかし怠惰は必ず自身に跳ね返ってきている。怠惰は「微笑まない」のだ。

 

今からでも遅くなはいのだろうか? 自分を、世界を変えられるのだろうか?

もしもあの頃にタイムリープできるなら、今頃現状に満足できているのだろうか?

 

いや、怠慢だった過去のほうを向くのではなく、反実仮想をするのでもなく、将来のほうを向いて自分を、環境を変えていかなければならないんだ。ないものねだりをするのではなく、自分で入手しに行く必要があるんだ。もし自力では困難なら、声を誰かに聞いてもらえるまで上げ続ければいいんだ。

 

変わるしかない。変えるしかない。