清算

過去の嫌な出来事を振り返る記事です。

 

僕の最も古い記憶の1つは、母に「3つ下の弟のほうが運動神経がいい」と言われたことだ。1回や2回ではない。年齢の違いが身体能力に現れやすい幼少期で既に、3年近く遅く生まれた弟よりも明らかに身体能力が劣っていると言われることは、やはり屈辱的なものだったのだろう。そう言われたことを未だに覚えているのだから。

実際、幼少期の僕から見ても小学生の僕から見ても、弟のほうが運動神経が良いのは紛れのない事実ではあった。(一方で弟にしてみれば僕と学校の成績を比較されて相当つらかったのだろうが。)そして体育の授業でも、僕が周囲と比較して圧倒的に運動ができないということを揺るぎない事実として突き付けられた。

こうして「僕は運動ができない」という事実と劣等感が心に刷り込まれることとなった。

 

母に言われ深く記憶に刻まれた別の言葉がある。「何も頑張らなくても誕生日やクリスマスにプレゼントが貰える、そんなのはおかしいよね」と。少年時代の僕は「確かに」と納得した記憶があるが、結果的に「頑張らなければ存在を認められないのだろう」と考えるようになった。プレゼント自体を記念日とは関係なく貰ったことはあるものの、実際、親から誕生日やクリスマスにプレゼントをもらった記憶はない。実家に住んでいた頃に誕生日おめでとうと言われたかどうかも怪しいし、少なくとも記憶にはない。僕が上京してからは遠くにいる僕を気にかけてかおめでとうと伝えられるのだが、表面上はありがとうと返信するも内心では何を今さらという感情しか湧かない。

 

存在を揺るがされるような出来事は他にもあった。正確な時期は定かではないが、小学生の頃に僕の名前を変えるという話がにわかに持ち上がった。はっきりとは覚えていないが縁起が悪いとか何とかで、名前をまるっきり変えるとか、音は同じで漢字を変えるとか母に言われた。少年の僕が即座に拒否したことは鮮明に覚えている。子供ながらも、名前が変わることで自分が自分でなくなるような感覚になるのを避けたのだろう。でもそもそもこういう話が出てくること自体がネガティブな印象を植え付けるものだ。

 

(母の名誉のために断っておくと、僕が小学生の頃に生まれてこなければ良かったと言った時にはめちゃくちゃに号泣されたので、大切な我が子と思われてはいたようだ。)

 

小3の冬から小4の終わりまで、僕は不登校になった。当時かなり仲がよかった友人とほんの些細な誤解がきっかけで喧嘩に発展して学校で会うのが気まずくなった。(もっとも、後半は今まで不登校だったからクラスメイトに会うのが気まずくて不登校になるという負のスパイラルにいたのだが。)

小5の4月のクラス替えに合わせて意を決して登校することにした。こうして振り返ってみれば相当な勇気だっただろう。

ここで言いたいことは不登校になったことではなく、人間関係は不確かで脆いということだ。親友と言えるような仲だったとしても、所詮は赤の他人でしかなく、些細な気持ちのすれ違いで関係性までもが壊れてしまう。同時に、気持ちを察することの限界も感じている。どんなに仲が良くても、いや、むしろ仲が良いなら尚更、ちゃんと話し合うべきなのだろう。

 

小5から小6までの間に仲の良かった僕を含めた4人のグループみたいなものがあった。1つだけ忘れられない出来事がある。僕以外の3人でお泊り会をしたことを後日知らされた。4人1組のような関係と思っていたのに、自分だけがハブられた。言いようのない悲しみとショックを受けた。そして他人は僕が想像するよりも僕のことに注目なんかしていないし、僕が友人だと思っている人に期待したところで無駄なんだという悟りも開いた。(まぁ、かといって裏切られたと思っているわけでもないし、僕を誘わなかったことが悪いというわけでもない。自分が必ず遊びに誘われるわけでは全くないし、逆に自分が必ず全員を誘うわけでもないので、そんな気持ちになること自体おかしな話ではあるし逆恨みのようなものだ。)いずれにしても人間関係に対してネガティブな考えを持つようにはなった。

 

地元の中学校に上がり、僕はバドミントン部に入ることにした。僕に運動能力がないことは僕自身が一番よく承知していたつもりだが、当時は文化部ではなく運動部に入りたいという妙な虚栄心があった。

これが地獄の始まりだった。僕は同期の中でもダントツで下手だった。同期に見下されたり馬鹿にされたりするのは日常茶飯事で、先輩に部活を辞めろとかタヒねとか言われることもあった。圧倒的な劣等感に支配されるとともに、運動能力が普通の子供に産んでくれなかった両親を恨んだ。

 

中1の頃だっただろうか、僕は吃音を発症した。正確には自分の症状が吃音と呼ばれるものだと知った。僕は挨拶ができなかった。挨拶しないのではなく、文字通り「できなかった」。朝の登校時間に学校の玄関にいる先生に「おはようございます」と言おうとしても、第1音が繰り返されて、どうしても第2音以降の発音ができなかった。「お」から始める「普通」の朝の挨拶がどうしてもできなかったので、第1声を濁して「%&@ます」という挨拶になってしまった。仕方なかった。理科の先生でそこそこ偉い先生が授業中に、朝の「おはよう」という挨拶に対して「ございます」とだけ言う生徒がいるという話をした。僕のことを言われているような気がした。本当に文字通り挨拶ができないだけなのに。周りは僕のことを理解してくれなかった。世界は僕に冷たかった。周りが「普通」できていることが僕には「全く」できないという体験が深く心に刻まれた。

ある時、利き手(僕は元々左利きだったらしい)を強制的に変えられると吃音になりやすいという情報(真偽はともかく)を見てからは、親を本気で恨んだ。そうでもしなければやっていられなかった。もっと「普通」の人間に生まれたかった。もっと「普通」の人間になりたかった。(今思えば過剰なストレスのせいだったのかもしれない。)

今でこそ症状はかなり軽くはなったが、今でも挨拶の時に声が詰まる感じがするし、日常会話でも感じることがある。そしてその度に記憶が僕を襲う。

 

中2になり、地獄は一層深くなった。その時のクラスに仲の良い人が部活の内外含め1人もいなかった。そして部活の同期から絵に描いたようないじめを受けた。毎日のように昼休みに僕の教室に実行犯の部活同期がやってきた。痣ができるほど何度も足を蹴られ、筆箱の中身を床やゴミ箱にぶちまけられた。部活同期の多くは傍観しに教室に来ていたし、同じクラスの生徒もただ傍観するだけだった。僕は見世物だった。世界は僕を除け者にした。もう耐えられないと思ったある日、僕は学校に果物ナイフを持っていくことを考えた。もうこんな日々を終わりにしたい。相手を刺して負傷させても正当防衛くらい認められるはずだ。実際に家の台所から持ち出すことはなかったが、じっと見つめるくらいはした。(今思えばそんな行動に出なくて本当に良かったと思っている。今の僕にとっては経歴の瑕になってしまうから。)

傍観者の中には小学校時代に仲が良く、同じ部活に入った友達もいた。別に救いの手を差し伸べてくれなかったという理由で恨んだりはしていない。逆の立場だったら僕は友人を救ったという自信なんか持てないし。でも、やっぱり所詮は人は独りなんだと思った。「ひとはひとり」この世で大切なことを上手く言い表した言葉だ。

 

全部で数か月間だっただろうか。中3になる頃にはいじめもなくなった。

しかし、その後の人生でも、いや、その後の人生でこそ、多くの人たちと出会い比較していく中で、果てしない劣等感に襲われている。

僕は運動ができない。他には、頭の回転だって速くないし、コミュニケーション能力もないし、面白い話もできないし、人間関係も得意ではないし、相手の気持ちや考えを理解したり察することが上手くできない。ゲームだって得意じゃない。周りの人たちが当たり前のようにできている「普通」のことが僕にはできない。

 

自分が生きる理由って一体何なのだろうか。自分の価値はどこにあるのだろうか。僕には「肯定」が圧倒的に足りてない。コンプレックスの塊がヒトの形を借りて動いているようなものだ。生きる意義を見出すことができたら、自分の存在そのものを愛することができたら、そしてそれができる環境の中・経験の下で過ごせたら、どんなに気楽に生きられたのだろうか。人に蔑まれるのではなく、人に愛されるような人生がよかった。周りが「普通」にできていることを「普通」にできるような「普通」の人間が良かった。

僕はこれからも、決して癒えることのない劣等感と孤独感に蝕まれつつ、見つからない存在価値を探し求めて生きていくのだろうか。果たして、僕の人生はこれで良かった、これが良かったと感じられるときは来るのだろか。

 

とはいえ、ある意味では過去の経験たちに感謝もしている。人は究極的には独りで、だから一人で生きていかねばならないという、ひょっとするとこの世で最も重要なことを、僕に痛いほど分からせてくれたのだから。そして何があってもあの時よりはマシだと感じることができるのだから。